2026.01.16

私の最近の研究について 川島浩一郎:仏語学仏文学専攻

 フランス語を対象とする言語研究が、わたしの専門分野です。コトバの具体的な現象 (ソシュール的な用語でいえば、パロール) の観察にもとづいて、抽象的な存在としての言語 (ラング) を抽出する手法を構築することに、とくに関心を抱いています。直接的に観察できるモノやコトを通して、直接的には知覚できない対象について推論、推定することが、言語研究 (あるいは、多くの学問) の一番面白くて、楽しい部分だと思うのです。サンテグジュペリが描く王子によれば、「大切なことは目に見えない (Ce qui est important, ça ne se voit pas)」そうです。

 以下、最近の拙論である「定冠詞記号素における指標性 ―無標の名詞限定辞記号素」『フランス語学研究』第59号別冊 (日本フランス語学会) を紹介します。この論考は、2025年8月1日付けで刊行されました。

 フランス語の定冠詞によって表現することのできる意味は、多岐にわたります。定冠詞の使用は、話し手と聞き手が言及対象を共有することに貢献することもあれば、そうでないこともあります。名詞などが表す概念領域の全体 (総称) を表現することもあれば、そうでないこともあります。言及対象の唯一性を表現することもあれば、そうでないこともあります。
 機能を共有するもののなかで、共有された共通部分しか備えていないことを「無標」と言います。たとえばchien (犬) という記号は、chien、chienne (雌の犬)、chiot (仔犬) がもつ意味機能の共通部分のみを表現します。つまりchienは、「犬」という意味を共有する記号のなかで、無標性を備えた記号だと言えます。
 この論文では (音韻論に由来する)「対立の中和」と呼ばれる理論を、最上級形容詞における名詞限定辞 (あえて英語でいえば、the longest riverのthe) に適用することを出発点として、フランス語の定冠詞が「無標の名詞限定辞」であることを論証しています。つまり、定冠詞は、冠詞 (定冠詞、不定冠詞、部分冠詞) を中心とする、すべての名詞限定辞が備えた機能の共通部分だけを出力する名詞限定辞です。これは、chienという記号が、chien、chienne、chiotの意味的な共通部分のみを表現していることと同種の関係性です。
 定冠詞が多義的であるのは、定冠詞が無標の名詞限定辞であるからにほかなりません。そこには、chienによって表現される対象が多岐にわたる (雌の犬であったり雄の犬であったり、仔犬であったり成犬であったり老犬であったり、トイプードルであったり柴犬であったり) ことと、本質的には同一の原理が関与しています。
 この論文の最大の特徴は、定冠詞の機能を分析するために「対立の中和」理論を用いたことにあります。具体的にどのように分析したかについては、説明がかなり長くなるため、ここでは省略させていただきます。
 「対立の中和」は、トゥルベツコイをはじめとする構造主義的な言語研究者が開発した古典的な理論です。個人的には、言語研究にある数多の理論のうちで、最も美しい理論の一つであると思います。ラングの抽象性を、よく反映した理論でもあります。なお、この理論については (言語研究におけるほとんどの理論と同様に) それを認める立場もあれば認めない立場もあります。また中和を音素対立にだけ認める立場もあれば、その適用を記号の対立に拡張する研究者も少なくありません。わたしは、「対立の中和」を (いくつかの前提条件をみたしていれば) 言語記号に適用できるとする立場をとっています。