2024.10.29

私の最近の研究について 堺雅志:独語学独文学専攻

 1899年1月,ウィーン批評界の寵児となっていたカール・クラウス(1874-1936)に,当時ウィーン最大手の『新自由新聞』より,花形の文芸欄担当記者就任の打診が舞い込む。けれども若き批評家は,その誘いを一蹴し,自費出版の批評誌『炬火』を発行し,文字どおり筆一本で,大新聞に挑む道を選ぶ。爾来彼の健筆は,大新聞の有するジャーナリズムの力とそれを利用する諸権力に怯むことなく揮われた。
 カール・クラウスは多くの箴言を書いた。詩も書いた。散文も書いた。そして戯曲も書いた。第一次世界大戦に対する反戦の意を込めた戯曲『人類最期の日々』を1919年に出版した。その評判はいや増し,朗読会でもいくつかの場を取り上げ,喝采を浴びた。ちょうど100年前,クラウス50歳時1924年の執筆活動は,もっとも脂ののった時期の一つで,その功績により1925年には,アカデミー・フランセーズの推挙によりノーベル文学賞の有力候補となった(受賞はジョージ・バーナード・ショウ)。
 隣国ドイツにて国民社会主義ドイツ労働者党が躍進し,1932年に政権を掌握する一方,オーストリアでもファシズムが躍進するさなかにあって,厳しい検閲に抵抗しながら彼は『炬火』を発行し続けた。クラウスの文筆活動は,反骨の生涯の証そのものであった。稀代の諷刺家がその生涯を閉じるのは,ドイツによるオーストリア併合の2年前のことだった。
 第二次世界大戦後,彼の遺稿のなかに『第三のワルプルギスの夜』と題されたひとまとまりの原稿が発見される。戦後多くの人々が,クラウス晩年の世情混乱期の検閲の背後で綴っていた思想に触れることになる。そこには,きな臭い世情に対しいかに行動するかが力強い筆致で認められていた。
 カール・クラウスは文筆活動を通じて,人文学,すなわちことばに携わる私たちにとって揺るぎない指針を示してくれる。「人間よ,ことばに仕えることを学べ」と。
 生誕120周年にあたる1994年,ミュンヘン大学留学中に大学そばの古書店キッツィンガーにて『炬火』リプリント版(全822号の仮綴本が12巻にまとめられている)を求めて以来,クラウスの著作との付き合いは約30年になる(福岡大学図書館には往時出版された雑誌原本の所蔵あり)。そして生誕150周年にあたる今年2024年,彼の戯曲を再読する日々を送っている。